天動説、地動説と火星

ヨーロッパで天動説や地動説が考えられた動機は、ひとつには「世界を理解したい」という欲求だったと思いますが、もうひとつ「火星がいつ誕生日の星座に来るのか知りたい」という欲求がありました。

 

火星の色は、わずかにオレンジ色っぽい白で、中国では火の星と呼び、古代ギリシャでは軍神と見ました。

(古代ギリシャ以前はどうっだたのか、私は知りません。ギリシャ文字フェニキア文字から作られたそうなので、フェニキアとかエジプト、メソポタミアで既に軍神扱いしていたのかも知れません。)

 

火星は12の星座を3~4年で不定期に一周します。軍神が味方に付いてくれるのは、3~4年に一度の、不定期に訪れるチャンスだったのです。

 

---

 

12の星座の間を、太陽と月は一定のスピードで同じ方向に動きます。

ここで、「12の星座の間を」と言っている時、思い描いているのは星座を世界地図のように描いた「星図」というものです。実際には、夜空の星々は北極星の周りを24時間で一周するように動きます。この24時間の動きにおいて、星座は形を変えずに、北極星のまわりを回転します。そこで、この形を変えない星座を地図のように描いたのが「星図」です。

 

太陽は12の星座を1年で一周します。月や惑星も、太陽とほぼ同じ軌道を動きます。太陽と月はスピードが一定で、動く方向も一定なのですが、惑星はスピードが速くなったり遅くなったりし、たまに太陽・月とは逆の方向に動いて(逆行)しばらくすると元の方向に戻ります。

 

火星の不規則な動きを説明するために、単純な天動説(足元の地面は動いていない、という自然な考え)を離れて、地動説を考えたのだと思います。

 

---

 

ヨーロッパで記録に残る最初の地動説を唱えたのは、古代ギリシャアリスタルコス(サモスのアリスタルコス。サモス島はトルコの近くにあります。)ですが、それを記述したアルキメデスの文書は、残念ながら、古代ギリシャから古代ローマへ伝わりませんでした。どうも、紀元前3世紀ごろのアリスタルコスの説を、15~16世紀のコペルニクスは知らなかったようです。

 

コペルニクスの地動説は単純な所は良かったのですが、火星の予測となると、プトレマイオスの天動説とあまり変わりませんでした。

(これは、数学的には「なめらかな周期運動は円運動の和で表せる」というフーリエ級数に対応する話です。天動説と地動説は、フーリエ級数で関連付けられ、数学的には同等な2つの見方なのです。余談ですが、フーリエ級数の考えは、アナログ・シンセサイザー、商品名ムーグ・シンセサイザーとして応用され、任意の音をサイン・カーブの音の和で表そう、としました。)

 

上記の、あまり変わり映えしない、というのをコペルニクスは気づいていたらしく、30歳末頃に地動説を考案した後、40・50・60と地動説の改良を試みていたようです。コペルニクスの地動説が世間を賑わせた後、イタリアのティコ・ブラーエにより「太陽・地球2つ中心説」が唱えられたようですが、これもあまりパッとしませんでした。

 

この状況で、ドイツの数学教師ケプラーが、太陽・地球・火星の位置関係を5桁の数字で求める事を開始します。「5桁の数字」というのは、例えば太陽と地球の距離を1億5千万キロという2桁の数字ではなく、もっと精密に求めよう、という事です。ケプラーは20代後半で火星の動きを計算する2つの計算式(ケプラーの第1、第2法則)を発見し、正確な火星の予測表を作ります。そのケプラーに、2つの悪い事と1つの良い事が起きます。

 

1)何者かによって、ケプラーの母は魔女だという噂が流されます。これはケプラーの努力もあって魔女ではない事になりました。

2)何者かによって、ケプラーの家に火が付けられ、家と印刷機を焼かれてしまいます。ケプラーは、予測表を作る資料は持ち出せたそうです。

3)ケプラー34歳の時、ドイツ皇帝ルドルフ3世のお抱えになりました。

 

ルドルフ3世はケプラーを召し抱える時、火星以外の他の星の予測表も作って欲しい、と注文をします。そして、ケプラーは40代頃に、火星の運動をもとに他の惑星の運動を計算する第3の法則を発見します。

 

ケプラーは3つの法則を公表し、3つの計算式はヨーロッパの主な学校(大学)で教えられるようになります。この3つの計算式を組み合わせて変形していくと、ニュートン万有引力の法則の計算式が出てきます。

 

余談ですが、ケプラーの3つの計算式の内の2つからでは万有引力の計算式は出てきません。そこで、歴史のタラレバになりますが、もしケプラーがケチって、3つの内2つしか公表しなかったら、ニュートン万有引力の法則を得るのに苦労したでしょう。なお、リンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を発見した、というのはニュートンの死後130年頃にイギリスの伝記作家が作った作り話らしいです。