点と線の粒子。
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個人的には内部構造というのが大好きで、例えば時計のフタをあけて、中身が基板1枚だったりするのはイヤです。ちっちゃい歯車、ネジ、ゼンマイがあって、細かく動いていて欲しい。(実際には機械式の時計は一つも持っていません。)
そうした個人的な好みもあって、
・現実の光子や電子が、数学的な点のはずが無い
・電子に内部構造があって欲しい
と思います。
しかし、多くの普通の物理の本に書かれている素粒子論では、粒子を点または線(弦と書くと、まるで太さがあるかのように誤解してしまいます)と考えていて、古典力学で剛体を扱っているレベルには、ほど遠いです。
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量子電磁気学では光子と荷電粒子はともに点で、同じ座標(x, y, z, t)にいるときだけ反応する、という形になっています。これがゲームだったら、敵艦の位置にピッタリ着弾点を合わせないと命中しない、その「位置」は無限の桁数の「実数」だ、という絶望的なクソゲーです。
この量子電磁気学の最初の理論は朝永振一郎の超多時間理論で、それは、湯川秀樹の非局所場の理論を研究するべきだという主張(湯川のまる)に触発されたものだそうです。湯川の非局所場という感覚は、ごく自然なものだと思います。
残念ながら超多時間理論は非局場の理論ではありませんでした。ダイソンが朝永、ファインマン、シュウィンガーの3理論が数学的に同等だと、示したからです。今よく見られる量子電磁気学はファインマン流のもので、非局所場ではありません。
しかし、良く知らないのですが、ダイソンが示したと言われる
・点の理論であるファインマン流の量子電磁気理論
・非局所のアイデアに基づく朝永の量子電磁気理論
が同等、というのは水素原子の光の波長の計算においては同等、というだけで、理論本体が同等、という意味では無いかも知れません。
それと、ファインマンが使う経路積分(アイデアを出したのはディラックで、それを実際に計算できるところまで、詳細を詰めたのがファインマン)は、積分という連続な足し算であって、これは「非局所的な扱いをする」ということです。
「非局所的な扱いをする」から量子電磁気学がクソゲーにならずに済んでいる、気がします。量子電磁気学は、内部構造ではないところに素粒子の属性が備わっている、と考えています。
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点の次は線というのは自然な発想ですが、技術的に難しく、現状では
・線の端が着いたり離れたりすることは考える
・線が途中でバッテンのように交わることは考えない
・線がくるっと曲がって、結び目を作ることは考えない
らしいです。
弦理論に多くのタイプがあり、異なるタイプが関連しているため、共通する性質を抽出した理論(M理論 - それはもう弦の理論ではないかも知れない)を作るとか、弦の描く面の理論を調べる、ことが試みられているようです。
素粒子を、点や線、古典力学の剛体、のような、「日常見られるもの」としてイメージするのは、不適切なのかも知れません。もともと、
電子は粒子のようでもあり、波のようでもある
→ 電子は波ではないし、粒子ではない
→ 電子は、石ころや水面の波など、日常見られるものを使って
「のようなもの」と、たとえる事ができない存在
ですから。
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昔、ハイゼンベルクが散乱行列の理論というのを唱えた時、うろ覚えですが、彼の主張は「原子模型などを勝手に想定するな。素粒子の反応の入力と出力だけから、言える事だけで話をしろ」=「内部構造を考えるな」というものだったと思います。これはこれで公理論的量子力学、TCP定理などを生んだそうですが、そのうち消えてしまいました。
私は、散乱行列の手法が表舞台から消えたのは、技術的困難さ・将来性の無さとあわせて、内部構造を考えたい、という欲求があったのではないか、と邪推します。
しかし、将来の素粒子の自然観はどうなるのかなぁ、と妄想するとき
・点、線、膜、剛体のイメージから離れた素粒子論
・内部構造を想定しない素粒子論
という、なんだか抽象的な自然観になるかも知れない、と思います。
すでに現時点の素粒子像でも、波動関数というのは直接触れることのできない、内部構造の代替物と言えるので、すでに「内部構造を想定しない素粒子論」になっているようにも見えます。