「物理」グループの購読(4)ヒルベルト、ランダウ

「electromagvectorのブログ」の記事「場の古典論《32節》エネルギー・運動量テンソル」を瞥見しました。

今回も瞥見であって、とても読んだとは言えません。以下は読んで抱いた感想、連想した事柄、の独り言です。

 

1)

ランダウの「場の古典論」は、まあ何とも!美しい本です。(放射光の計算と宇宙論のモデルが当時は論文にして良いような新しい内容だったそうですが、このどちらも私は良く知りません。)このブログの記事も美しく、難解な記述のランダウの本を、なるべく分かり易いようにと図解し解説していて、その努力に頭が下がります。

 

2)

ヒルベルトは数学が自然現象全般に有効だという考えを持っていて、そのひとつの実証として重力場の方程式を、1914年に一般向けの講演会で話したそうです。講演会をアインシュタインも聴講していました。講演会の後、アインシュタインヒルベルトに手紙を書き、同じ方程式を自分も研究中であると述べ、先に発見したのはヒルベルトであると主張しないで欲しいと依頼した、そうです。その依頼をヒルベルトは了承した、そうです。その後アインシュタインは1915年に一般相対性理論の論文を書きます。

 

ここで、私の想像ですが、ヒルベルトリーマン空間ラプラシアンとして一般相対性理論の基礎方程式の(エネルギー・運動量テンソルを右辺とした)左辺側を講演しただけではないか。それは真空中の重力場の式、波源=ソース項が無い波動方程式、ではないか。だとすると、物体のある重力場を記述する一般相対性理論を「ヒルベルトが先行して発見した」ことには、ならないと思います。個人の想像ですが。

 

3)

また、ヒルベルトはエネルギー保存に疑問をもったらしく、ネーター女史に調査を依頼したが、ネーターからは特に報告が無かったそうです。これは、もしかすると、後にウンルー効果(ウンルーは変わった名前のアメリカ人物理学者)と認識される事柄をヒルベルトが直感していたのかも知れません。ランダウの「場の古典論」は古い本なのでウンルー効果については確か書かれていなかったと思います。

 

ちなみに、ネーターの定理で物理では有名なネーターさんは、数学でお給料をもらった最初のドイツ人女性で、ヒルベルトがネーターを雇う時にゲッティンゲン大学の教授連が反対したそうです。青空文庫で読める高木貞治ヒルベルト訪問記に、ネーターの事が少しでてきます。ネーターの主な関心事は代数であって物理ではなく、それが一般相対性理論のエネルギーの扱いについて調査するヤル気が出なかった理由ではないか、と個人的に憶測しています。

 

4)

ランダウは、ノーベル賞受賞の通知が来た後、一人で運転していた車がトラックと衝突して意識不明となりました。フルシチョフ書記長から「受賞式まで絶対に生かしておけ」との命令が出て、医師団が治療しましたが2カ月経っても意識が戻りません。もうだめだ、と判断した医師団は、それまでの面会謝絶の方針を改め、家族との面会を許します。病室に入った妻がランダウに話しかけると、ランダウの目が開きました。意識が戻り一命をとりとめました。そこで、もしフルシチョフの命令が無かったら、もっと早く意識が回復していたのでは、と後知恵で言われます。この話は映画化されていますが、日本には入ってきていないので、私は見たことがありません。ロシア人の評価では、奥さん役の女優さんの演技がイマイチだそうです。

 

しかし事故の後遺症で知恵遅れになりました。リハビリ中に医者がランダウに「マルを描いてください」というとバツを描き、「ではバツを描いてください」というとマルを描き、「どうして言う通りにしてくれないんですか」と尋ねると、ランダウは「言う通りにしていたら、君達は僕が知恵遅れだと診断するだろう。だから、言う通りにしなかった。」と応えたそうです。

 

ノーベル賞は病室で受け取りました。その時の写真が(当時は)公けの最後の写真で、それ以降は公けの場には姿を出さずに、晩年を送りました。

 

今は、お弟子さんの写真が公開されていて、晩年のランダウの姿を見る事ができます。ランダウの伝記は以下のサイトが詳しいです:

www.ega-math.narod.ru/Landau/Dau1971.htm

(自動翻訳を使っても読みにくいのが難点です)